社稷を思う心
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【正論】東京都教育委員会委員 将棋永世棋聖 米長邦雄
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070630/srn070630000.htm 引用開始 ≪大人の余計なお節介≫ 私は昭和18年の生まれで、兄弟は5人。学校は1クラス40人以上の児童、生徒数である。しかもクラスは1学年で6組から8組くらいあった。このような小中学校で教育を受けて今日に至っている。私よりも先輩は戦争の記憶も生々しく残されていることだろうし、大変苦労したはずである。空襲で焼夷(しょうい)弾の中を逃げ惑い、大火の中をさまよった人も多かろうと思う。戦前、戦後を通じて大人も子供も生きるために必死であった。余計なこととは言わないが、現在はあまりにも大人たちが子供のためにやってはならぬことまで至れり尽くせりのサービス過剰である。 校内で暴力沙汰(ざた)あるいは死傷事件が起きる。さあ大変だ。トラウマになり将来立ち直れない子供になっては、とカウンセラーに一人ひとりていねいにケアをしてもらうことになる。実はここに落とし穴がある。万一ケアを怠って、それが原因で精神的に参ったという者が出ると、その責任は誰かということが問われるということである。校長先生が一番責任が重く、監督している教育委員会の然るべきいわゆる上司に当たる者が次いで責任がある。 戦争中に、日本中の学校にカウンセラーを配置したか。放っておいたではないか。それでは家を焼かれ、父母の死を目の当たりにした者は皆だめになったか。そうではあるまい。昭和20年代の日本人は大なり小なり心の傷、人には言えぬ悲しみを背負っていたはずである。子供たちも自らが生き抜くために必死であった。ここが肝要な点である。もちろん、大きな事件を体験した子供へのカウンセリングを全面的に否定するつもりはないが、何でも子供の心を守れ、などと言って過剰なお節介をし過ぎるのではなかろうか。 ≪社会的知性を学習する≫ 近頃の子供は、おじいさんやおばあさんが自宅で息を引き取る現場などに居合わせることはまずないのだろう。人が死ぬという厳然たる事実をありのまま見せ、そして家族が泣き、葬儀を済ませるまでの慌ただしさを肌で覚えさせることも教育では大事なことのひとつだ。まさか家族の誰かが死ぬごとにカウンセラーのお世話になるようなヤワな子供ばかりではあるまい。こんな時、子供心にも人間の死について何かを感じ、何かを学び、どう生きるかを考えさせることができるはずだ。 現代教育で最も求められていることは、子供たちが深く事象をとらえて考える力をはぐくむことにある。同時に自分の感情をどのように抑えることができるかという社会的知性を身につけさせることも大切だ。 これが「ゆとり」の基本的スタンスであって、近頃は排斥されてしまいつつあるが、かつて文部科学省が打ち出した「ゆとり」こそ、生きる力をはぐくむという崇高な理念に基づいて導入されたものだったのである。今や「ゆとり」という言葉は憚(はばか)られるようになってしまった。 そこで提案したい。「ゆとり」に代わるものを学校教育に導入してはどうだろうか。例えば、将棋である。将棋は自らが考え、現状を判断し、自らが結論を出し、断行(着手)する。まさしく総合的な学習のお手本といえる。囲碁やチェスも同様であるが、子供たちがお互いに自己の力をぶつけ合いながら、全く他人のお節介の入らない勝負の世界に身を委ねる時間を持つことがいかに大切か、一度真剣に考えてみてはいかがであろうか。 引用終了 将棋もいいが、まずは行進・掃除です。小学校一年生から徹底した行進と清掃を行わせる。これで公徳心と協調性の基礎ができる。美しい行進のできる子らには学級崩壊は無縁であり、掃除をきちんとする子らは苛めもしない。教育の基本は行進と掃除。 行進と掃除を徹底させる教育委員会。 人気blogランキングへ PR |
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